カルトトラッシュ宣言 -SINNER-
Tokyo 2012


「ユウヤのブログも作品も読んだぜ!

これは詩としても傑作だね。
サイバーな影響を受けながらも、世界にひとつしかない世界観に到達している。

トークショーのときも言ったけど、
「子宮外妊娠」をだすために人々をねじふせる「ケチャップ」を書いたようなもんだ。

このへんでユウヤもいわゆる「共通言語」の小説を書いてみる時期にきたのでは?
それも楽しいぜ。
参考文献はクーンツの「ベストセラー小説の書き方」を。

それとたんなる作家でなく、歴史を変える作家に本気でなりたければ、
旅をしろ。
ノルマは5年以内に50カ国。

ユウヤならできる!」
AKIRA氏2012年8月13日付メール
http://www.akiramania.com/

「ふたたび生れ変るためには生きながら身を焼かねばならぬ」(ジャン・コクトー)

「己れの欲するものをささげることによって、真実の自足に到ること。己れを失うことによって、己れを見出すこと」(坂口安吾『いずこへ』)

2001年1月に天啓を受けて書き始めた習作。
そして『TOKYO VIRUS』(2005年)、『NOIR DÉSIR』(2007年)の二作と未発表作品『gefallener Engel』の三部を一つに纏め約10年の歳月をかけて昨年完成した『HAKENKREUZ HALLUCINATION』。

前回の文学フリマで出品した『Chrome Exhaust -REIGNITION-』は、REIGNITION(再点火)、つまりは「桜井夕也第二章の幕開け」として喧伝された。が、それは多分に意図的な、人工的なCM(コマーシャル)だった。

今回出品する「Chrome Exhaust」シリーズ第二弾『Chrome Exhaust -Black Russian-』は、「ふたたび生き返るためにはみずからを焼かねばならぬ」(ジャン・コクトー『ポトマック』)という、再生への、脱皮への、脱穀への、自己超克への、悪戦苦闘に他ならない。

「文学上の最大傑作とは、ばらばらになった辞典にほかならぬ」(ジャン・コクトー、前掲書)という、バロウズのカットアップ―古くはDADAの「帽子の中の言葉」、シュルレアリスムの「自動書記」、あるいはボードレール、ヴェルレーヌ、マラルメ、ロートレアモンの散文詩―に影響を受けた私の作品をどのように変容させるか。

「俺達の叫びは、狂人が精神病院の独房で叫ぶ咆哮だ。」(桜井夕也『カルトトラッシュ宣言』)
それは孤独ではあるが、必要な孤独だった。「自己表現とは、他人とのつながりにおいて達成できるものではない。他人の自己表現が邪魔に入ってくるのだ。自己表現が詩や音楽や絵画で絶頂に達するのは、至上の孤独を守る人びとによっておこなわれる。」(コリン・ウィルソン『アウトサイダー』(集英社、1988年)378ページ)
だが、「孤独にとじこもった」ジュネは、バタイユによって次のように断罪される。
「人類〔人間性〕とは、孤立しただけの諸存在でできているものではなく、それら諸存在間の霊的交通(コミュニカシオン)において成立するものなので、わたしたちは、自分自身にとっても、この他者たちとの霊的交通の網目のなかにおいてでなければ、自分をとらえることはできない。つまりわたしたちは、なんとしてもこの霊的交通のなかにひたされているので、そのたえざる霊的交通の不在性を、まるで多彩な可能性への暗示のように、まるで他の人たちの心にまで到達するひとつの叫びとなる瞬間への期待のように、痛感しているのである。それというのも、人間の実存とは、周期的に結晶するたびごとに、わめき立てられる言葉、激しい痙攣、気ちがいじみた笑いとなってのみあらわれるものであり、しかも、その瞬間には、わたしたち自身と世界との不加入性 impénétrabilité がついに共有された partagé というひとつの意識において、共感がわき起るからである。」(ジョルジュ・バタイユ『文学と悪』(筑摩書房、1998年)314-315ページ)

果たして孤独・狂気と、霊的交通、つまりはコミュニケーションのどちらが、「至高の瞬間」(バタイユ、前掲書)を捉え、達することができるのか。

その問いの答えを求めて、「生きること」が「書くこと」とイコールな、「書くこと」が「生きること」と同義な生(白鳥健次氏の言葉)を送りたいと思う今日この頃である。


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