カルトトラッシュ宣言
Tokyo 2012


「退屈なんだ。――家にいた時、退屈だった。
退屈から逃げるために家を出てパンクになった。それでもまだ退屈なんだ。」
(橋口譲二『自由』(角川書店、1998年))

退屈なんだよ。
見るもの全てがデジャヴする。
この既視からの、この日常からの脱出。
そのためのデペイズマンだ。
スリル、刺激、快感、刹那、ジャメヴュ。
そのための方法がセレンディピティ、甘美な死体、帽子の中の言葉、解剖台の上でのミシンとコウモリ傘の偶然の出会い、だ。
その末裔としてのカットアップ。『ニューロマンサー』。「大衆の意識を凡庸な日常生活のレールから――すなわち政府や広告産業や教育制度の連係プレーによってあらかじめ敷かれた条件反射や欲望や制度や信念のレールから――脱線させるための」(ラリイ・マキャフリイ『アヴァン・ポップ』(筑摩書房、1995)273ページ)アヴァン・ポップ。
そして、ロートレアモン、レーモン・ルーセル、マラルメ、アントナン・アルトーらと並ぶ文学的天才/突然変異種の白鳥健次(Kenji Sirtori)。
そうしたものに影響を受けて、今あなたに呈示されている作品は(未だ完成されないまま)上梓された。
小説? 詩? 散文詩?
サイバーパンク? カットアップ? サイバーゴシック?
その判断は読者に委ねられている。
なぜなら、「テクストとは、無数にある文化の中心からやって来た引用の織物」(ロラン・バルト『物語の構造分析』(みすず書房、1979年)85-86ページ)に過ぎず、「一遍のテクストは、いくつもの文化からやって来る多元的なエクリチュールによって構成され」(同書、88ページ)、「文学(というよりもこれからはエクリチュールと呼ぶほうがよいであろう)は、テクスト(およびテクストとしての世界)に、ある《秘密》、つまり、ある究極的意味を与えることを拒否し、反神学的とでも呼べそうな、まさしく革命的な活動を惹きおこす」(同書、87-88ページ)からだ。
すなわち、「テクストとは(中略)唯一のいわば神学的な意味(つまり、「作者=神」の《メッセージ》ということにあろう)を出現させるものではない。」(同書、85ページ)
作者は作品に対して神のごとき立場で唯一絶対の解釈を読者に強いる権利などない。解釈は多様であり、それは読者に委ねられている。
であるが故に「ウィリアム・バロウズには、そういうブンガクはない。というか、たぶんそんなブンガクなんて、どこにもないのだ。あるのかもしれないけれど、でもそんなものは知らなくったってなんにも困りゃしない。しょせんは小説、好きなように読んで、自分にあわなければほかのモノに手を出せばいい。」(山形浩生『たかがバロウズ本。』(大村書店、2003年)93ページ)
読者は好きなように読み、作者は好きなように書けばいい。
ただそれだけのことだ。
それがたとえあらゆる消費、あらゆる読者から独立した、流通を目的としない、狂人に似たテクストだとしても。

「十七世紀末までは、書くということは、誰かのために書く、人を教え、楽しませ、消費されるような何かを書くことでした。書くということは、一社会グループの内部における流通を目的とした言葉(パロール)の支えにすぎなかった。ところが今日では、エクリチュールは違う方向を向いている。もちろん、作家は生計を立てるために、世間的成功を収めるために書きます。心理的な次元で考えれば、このような書くという企ては昔と変わりません。しかし、私たちの関心を惹くのはそのことではない。問題は、エクリチュールを織りなす糸がどのような方向に向いているかを知ることです。この点で、明らかに、十九世紀以降のエクリチュールは、それ自体で、それだけのために存在するものであり、必要とあらば、一切の消費、一切の読者、一切の享受、一切の有用性から独立して存在するものです。ところで、このような、エクリチュールの垂直的な、ほとんど伝達不可能な活動は、まさに、どこか狂気に似ています。狂気とは、いわば垂直に立って、伝達不可能なものである限りの言葉(パロール)、通貨としての価値を失ったものとしての言葉(パロール)であります。言葉が誰からも欲しがられないほどにまで一切の価値を失ってしまったにせよ、あるいはまた、余りにも高度な価値を担わされているので、それを通貨のようにして用いることを人々がはばかるにせよ、です。しかし、結局、この点で、両極端は合致するのです。このような非流通的エクリチュール、このような屹立するエクリチュール、それはまさに狂気の類同物であって、従って作家が狂人のなかにいわば自分の分身(ドゥーブル)、あるいは亡霊とも言うべきものを見出すのは当然のことでしょう。あらゆる作家の背後に、狂人の影が言わば控えていて、その影が作家を支え、作家を支配し、作家に覆いかぶさっている。おそらくは、作家が書く瞬間には、彼の語ること、書くという行為そのものにおいて産出することは、狂気以外の何物でもないと言えるでしょう。」(「文学・狂気・社会」『ミシェル・フーコー思考集成V』(筑摩書房、1999年)447-448ページ)

俺達の叫びは、狂人が精神病院の独房で叫ぶ咆哮だ。

だがそういった「狂気の文学」は、「退屈」を、「日常」を、破壊してきた。
その証拠に、ゴッホやドストエフスキーらのアウトサイダーによる「自己表現とは、他人とのつながりにおいて達成できるものではない。他人の自己表現が邪魔に入ってくるのだ。自己表現が詩や音楽や絵画で絶頂に達するのは、至上の孤独を守る人びとによっておこなわれる。」(コリン・ウィルソン『アウトサイダー』(集英社、1988年)377-378ページ)

デジャヴの、退屈の、日常の、超克。
そのLong Hard Road Out Of Hellが、今あなたの手元にある。

「ヒロちゃん、オレは20年間もレスなしのメールを書き続けてきたようなもんだ。形にせよ。その時代に拒絶されたものだけが、つぎの時代を創れる?」
(AKIRA (http://www.akiramania.com)氏2002年12月4日付メール)


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